佐倉市議会 2019-09-04 令和 元年 8月定例会-09月04日-04号
A案は、佐倉、江戸、藩主とその時代まつりです。江戸時代の佐倉は、ご案内のとおり、江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族や譜代大名が治める極めて重要な藩でした。
A案は、佐倉、江戸、藩主とその時代まつりです。江戸時代の佐倉は、ご案内のとおり、江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族や譜代大名が治める極めて重要な藩でした。
質問事項4の戸定邸についての(2)でございますが、この1901年撮影、最後の水戸藩主徳川昭武の写真ということで載っておりましたが、この写真というのは、戸定歴史館、戸定邸のホームページに載っている1901年に撮影された東屋と長椅子の写真なんですけれども、この写真が徳川昭武の写真ではないということがわかりましたので、この部分は訂正させていただいて、1901年に撮影された写真には東屋と長椅子が写っているが
薩摩藩で新たに藩主となった島津斉彬は、論語から引用し、「襲封して三年は、先君の政、変えること叶わじ」と家臣に伝えたということです。私も、斉彬に倣いまして、栄町教育が目指してきた学校教育をより伸張し、現場である学校、教職員、保護者、何より子どもたちが混乱しないようにし、「学校教育の信頼」、ひいては「栄町教育の信頼」を高めてまいりたいと考えます。 以上で、答弁といたします。
◆6番(望月圧子) 次に、農作物の輸出に関連してですが、実は佐倉とお茶の関係は深く、佐倉藩の中心であった旧藩主が廃藩後の生活維持のために生産した佐倉茶について、聞くところによりますと明治時代にはニューヨークへ輸出され、大変好評であったとのことです。その後長く生産が途絶えておりましたが、近年その伝統を受け継いだ佐倉茶が復活し、生産されております。
当時小見川藩主であった土井利勝が佐倉に入って築城して、このほかのことにつきましては当時の江戸幕府の記録には記されておりません。そういう状況であります。また、城下町につきましては城を整備すれば必ずそこに住む武士や家族のために商人も必要となりますので、新町などの商人町がつくられ、街道が整備されてきたものと私どもは理解しております。 以上です。 ○副議長(森野正) 小須田稔議員。
その内訳としましては、伊能忠敬関係が2件、香取神宮関係が4件、土地検地帳関係が4件、神社や寺院に関するものが4件、藩主や領主にかかわるものが4件、名主等が2件となっております。年代的には平安時代末期から明治時代までのものを含んでおりますが、中世から近世の文書が大部分を占めてございます。
戊辰の戦で、函館五稜郭に立てこもる榎本武揚率いる蝦夷共和 国軍の鎮圧に向かった津軽藩、そして津軽藩主の実兄となる熊本藩主の命により、津軽藩救援 のために外輪蒸気船ハーマン号に乗船し横浜港を出港した官軍は、川津沖で座礁沈没しました。
福井藩主の第16代松平慶永、これがどういうことを言ったかというと、「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」と、こうあるわけですね。だから、大いにいろんな方の意見を聞いて、やればいいわけですよね。ぜひ、この言葉は後で渡しますので、要するに我に才略ないと、才略というか特別なあれがない。
この場所に江戸時代の一里塚の目安となっていたエノキの大木があり、佐倉藩主が江戸への登城の折などに休憩所として立ち寄ったと言われています。このエノキの古木は、昭和55年に市の保存樹木に指定され、多くの市民に親しまれてまいりましたが、4年前の強風により根元から裂け、倒木の危険性が高まったことにより伐採されました。
上杉鷹山の藩政改革は、米沢藩9代藩主に就任した1767年から始まり、その後、代々の藩主に引き継がれ、数十年の時を費やしましたが、この改革の期間中2度の大飢饉を乗り越え、藩政改革をなし遂げる基礎をつくった人物で、いまさらその偉業を説明するまでもなく、上杉鷹山ならば誰もが財政再建の神様と認めるでしょう。
請西小学校では、郷土博物館の職員を講師に学習会を実施しているが、それ以外の学校では、中学校の社会科の教員が請西藩と藩主林氏について触れることもあるというような回答でございました。では、教育委員会としては積極的に教えるような指導はしてないのでしょうか。
いつごろ統治されていたかといいますと、城址のほうをですね、ちょっと表を見ていただくと、一番初めに山形藩主になったのは1685年の堀田正仲さんなのですけれども。その後、ちょっと時が流れて1700年からこの堀田正亮さん、3代まで46年間はこの柏倉中心の山形藩主として行政を行いました。
旅館松の家、上野腰古井の吉野酒造の店舗兼主屋であるとか酒蔵、煙突等、 もろもろ10件程度、また、県の無形民俗文化財として鵜原の大名行列、県の天然記念物として 高照寺の乳イチョウ、鵜原八坂神社の自然林、市の有形文化財としては、嶋村俊表、俊正らの 彫刻で有名な勝浦区の三町の祭屋台、波の伊八の彫刻で有名な覚翁寺本堂の欄間、江戸後期の 代表的な建物と言われている興津妙覚寺の山門、江戸初期に、当時の植村藩主
第3代将軍、徳川家光が1651年に亡くなりましたが、このときに佐倉藩15万石の藩主、堀田正盛は家光の後を追って殉職、つまり割腹自殺をいたしました。封建時代でしたので、他の藩でも同様なことが起こっています。さらに正盛の長男、佐倉藩13万石藩主、正信は、改易、つまり更迭された後、1680年、第4代将軍、家綱の死の際に後を追ってやはり自害、これは割腹自殺ですが、をしました。
このような農業の発展のために人を呼び込むということは、江戸時代の藩主、堀田氏の築いた向学の風土によるものだというふうに言えます。西洋野菜の栽培を成功した津田仙も、佐倉で学農社農学校を設立し、農業教育に尽力されました。これらの歴史的事実は、伝統ある佐倉の農業を形づくったものと言えると思います。
江戸時代初期、仙台藩主伊達政宗がスペインとローマに派遣した使節に関する史料でございます。国宝です。 4件目は、東寺百合文書であります。京都の東寺に伝わった古文書で、一つの寺院に伝わった文書としては世界最大規模と考えられております。国宝でございます。 5件目は、舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録であります。
江戸時代初期、仙台藩主伊達政宗がスペインとローマに派遣した使節に関する史料でございます。国宝です。 4件目は、東寺百合文書であります。京都の東寺に伝わった古文書で、一つの寺院に伝わった文書としては世界最大規模と考えられております。国宝でございます。 5件目は、舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録であります。
順天堂大学の前身でもあります順天堂は、今から170年ほど前、時の佐倉藩主、堀田正睦公が文武奨励策を推進し、藩校の成徳書院を開校し、特に医学では蘭法医学を取り入れ、藩士を長崎へ留学させるとともに、佐藤泰然を佐倉に招き、本町に蘭医学塾兼診療所、順天堂を開いたことに端を発して、幕末から明治にかけて全国各地から多くの門人が集まりました。
15代将軍徳川慶喜の実弟に当たる徳川昭武は、黒船来航から明治維新にかけての激動の時代に生まれ、留学先のパリで幕府崩壊の知らせを受け、帰国後には最後の水戸藩主に就き、次期将軍の有力候補でもあったことから幻の将軍と言われております。
徳川幕府の大政奉還に伴いまして、明治2年掛川藩藩主太田資美公が松尾城の築城に着手し、工事の完成を見ることはなかったものの、現在も数々の貴重な遺構、遺物が市内に残されております。このような貴重な歴史的資料を公開、保存、活用する松尾分館を開設することにより、文化の高揚、郷土愛を育むとともに、文化財を軸にした積極的な観光誘致を図るため、本条例の一部を改正するものでございます。